略史−ブラジル日本移民
ブラジル日本移民の歴史は1908年6月18日、最初のブラジル移民船、笠戸丸がサントス港に到着した時に始まった。 笠戸丸は神戸港から出航、52日間の航海の後サントス港に到着したのは781名の農業契約移民と12名の自由移民たちであった。彼らは希望と成功の夢を胸に抱いて、言語、習慣、気候のまったく違う国に着いたのだった。
移民前史 日本は1908年に最初の移民をブラジルへ送りこんだが、最初にブラジルの土地を踏んだ日本人は彼らではなく、1773年に日本沿岸で暴風雨のため遭難し、長い漂流のあとロシア領のアリューシャン列島アンドレヤノフ諸島の小島にたどり着き、島民に助けられた若宮丸乗組員の生存者たちだった。若宮丸の乗組員たちはイルクーツクで8年間すごしたあと首都ペテルスブルゴに連れて行かれ皇帝アレクサンドル一世に謁見した。 若宮丸生存者のうち4人は皇帝の計らいで日本へ送還されることになり軍艦2隻で出航した。ロシア軍艦は航海途中で暴風に遭遇、一隻が破損したため1803年の12月20日にブラジルのデステーロ港(現在のサンタ・カタリーナ州フロリアノポリス市)に修理のため寄航し翌年の2月4日まで滞在した。この4人の日本人は当時のブラジル人の生活や農業などの貴重な記録を残している(注:環海異聞)。また、若宮丸の乗組員の後にも1867年の開陽丸のリオ寄港等、幾人かの日本人が笠戸丸移民の前にブラジルを訪れている。 日本人移民が正式にブラジルに受け入れるにあたって、まず最初に必要なのは日本とブラジル両国間の国交銃率であった。 国交樹立に向けての正式な両国の折衝は1880年11月16日、清国との通商条約締結の帰途、日本に立寄ったブラジル海軍のアルトゥール・シルベイラ・ダ・モッタ少将(後のバロン・デ・ジャセグァイ)と日本外務省の間で日伯通商条約について話し合われた。しかる後、1895年11月5日には日伯修好通商航海条約が締結され、フランスのパリで日本側全権曽弥荒助とブラジル側全権ガブリエル・トレード・ピザ・エ・アルメイダによって正式調印され、1897年に相互の公使館開設となった。
ブラジル移民のはじまり
初期の移民たち
笠戸丸でブラジルに到着した793名(*)の日本人移民たちは、サンパウロ州の6つの農場にそれぞれ配耕さたが、そこでは厳しい現実が待っていた。たとえば、ドゥモン農業商会が経営する農場に入った日本人移民たちは、労働条件の悪さに2ヶ月ももたずに逃げ出してしまった。その他の農場も似たりよったりで、数ヶ月もしないうちに大半の日本人移民たちが農場から逃げ出していった。日本人移民たちが直面した労働条件の悪さとは、コーヒーが老樹で収穫量が少なく、重要な収入源であるコーヒーの実の収穫賃金が移民会社で聞いたものより大幅に少ないというのが大きな原因であった。 その他にも住居や食事の事情が想像以上に劣悪なものであったとか、言語習慣の違いから農場側との意思の疎通を欠いたなどという理由も脱耕、退耕(注:耕地を逃亡したり、協議して退去すること)の原因であったと思われる。契約を反故にして逃げ出す日本人移民はさらに増加し、1909年9月の時点では最初の契約で雇用された農場に残ったのは僅か191名に過ぎなかった。 日本政府は、旅順丸移民の不業績を理由に再びブラジル移民を一時見合わせ。第3回移民が送り出されたのは1912年。再び政府許可をとった殖民会社は、厳島丸で1400名をブラジルに送った。これ以降、第4回移民船の神奈川丸(1912年6月サントス着。1412名)、雲海丸(1913年5月着。1500名)、若狭丸(1913年5月着。1588名)と続々と日本移民が新天地に到着しはじめた。時の経過とともにこれらの日本人移民たちはブラジルの風習に慣れるようになり、それとともに農場側との紛争も徐々に減少し、コーヒー農園での仕事も長続きするようになった。
自営農業への推移−植民地の建設
日本人移民で最初に自営農業を始めたのは6家族と言われており、彼らはブラジル政府のモンソン植民地計画のおかげで、1911年、ソロカバーナ線セルケイラ・セーザル駅奥に土地を購入して自営農として独立することができた。ちなみに、日本人移民では最初に綿作を始めたとされている。
1914年には、サンパウロ州で働く日本人移民は約一万人に達していた。一方、サンパウロ州政府は、日本人移民のコーヒー農場定着率が悪く、渡航費も高いということを理由に日本人移民の船賃補助を打ち切ることを決定し、移民会社に通知した。日本人移民に対する船賃補助打ち切りは1916年まで続いたが、第一次大戦の影響でヨーロッパからの移民が途絶えると州政府は再び日本移民受入れを開始し、1917年、若狭丸による1300名の到着で日本からの移民が再開したが、やがて州政府は1922年に再び日本人移民への船賃補助を打ち切ることになる。 また、この時期(1915年頃)に日本人移民の歴史でもっとも悲惨なエピソードが起こった。それはカフェランジアの平野植民地で六十数人の日本人移民がマラリアで亡くなったことである。(注:他の熱帯性伝染病という説もある)しかし、すでにブラジルに移住していた移民たちによる新しい植民地の建設は続いた。 サンパウロ州の奥地は次々に開墾されていった 開墾のあとにはコーヒーの木や綿が植えられた
州政府による日本人移民への船賃補助打ち切りにより、ブラジル移住の道は閉ざされたかに見えたが、1924年の日本政府による「ブラジル移民の船賃全額補助」決定により移住は拡大に向かうことになる。その後、日本政府は船賃補助のほか、道府県別に海外移住組合とその連合会の設立を主導し、ブラジルにおける大型移住地建設に必要な資金融資を始めた(注:海外移住組合連合会の現地ブラジルでの事業推進のため、ブラジル拓植組合(ブラ拓)が創設され、これにより、チエテ、バストス、トレス・バーハス植民地などが建設された)。またこれに先だって、長野県をはじめとする4県がアリアンサ移住地建設に着手している。さらに日本の実業界有志や拓殖事業家たちも植民地建設に続々と参加し始め、これらの上昇機運的な背景を反映して、以降のブラジル移民は大幅に増加し、ブラジルにおける日本人移民社会はやがて興隆期を迎えることになる。 注:契約労働者(コロノ)として数年働き、もうけて帰ろうと考えていた者たちが、なぜ自営農への道をたどったのか。コロノでは徹底所期の目的を達することは不可能と知って、当時売り出されていた、バウルー以西の原始林を目ざし自営農となり、金をもうけての帰国ストラテジーに切り替えたからである。コロノ移民の大勢は、ノロエステに始まり西部を目ざしたことにふれることが必要。リーダーがいて造成された植民地、移住地は特殊である。
ブラジル文化への適応と第二次世界大戦
この時期、日本人植民地はサンパウロ州のノロエステ(北西部)方面に次々と建設されていった。また各地の植民地には移民子弟の教育を目的とした、初等学校が建設され始めた。(注:帰国に備え、主として日本語教育に力をいれた。)1918年には日系で初めての小学校教師が誕生した。隈部姉妹で、リオ・デ・ジャネイロの師範学校卒だった。また1923年には日系で最初の歯科大学卒の歯科医が誕生した。しかしながら、この東洋のエキゾチックな移民たちの増加は、ブラジルの社会に新しい問題の渦をもたらすことになる。 サンパウロ州奥地に伸びるノロエステ線沿いに次々に日本人植民地が誕生した
一方、日本語刊行物は、1916年の「南米」の創刊に始まり、日本人移民の増加にしたがって、次々と新しい新聞や雑誌が刊行されていった。1910年代から1930年代にかけて発行された新聞は、「ブラジル時報」、「日伯新聞」、「聖州新報」、「アリアンサ時報」などの5紙があり、雑誌では、「農業のブラジル」、「波紋」、「ポプラール」、「カナ・ブラジル」、「青空」、「郷友」、「若人」、「力行の叫び」、など15誌がある。 1932年の在サンパウロ日本総領事館の記録によれば、当時ブラジルには13万2千689人の日本人移民がいて、その多くがノロエステ(サンパウロ州北西部)に集中し、内、90パーセントが農業従事となっている。 また1929年には第一回アマゾン入植が始まっている。アマゾン地域はアカラー(後のトメアスー)に第一回から1937年まで22回に渡って計375家族が入植した。医療、教育、設備まで完備した植民地であったが、それまでのサンパウロ州とは異なる未開発地域であったことから、入植初期に悪性風土病が発生したり、適性作物が長く見つからなかったりといった問題に直面し、第7回までの入植者202家族の中からは死亡者が多く出たり、61家族が他に転出するなど問題が発生したが、後年、東南アジアから導入した胡椒が、戦後に価格が高騰したことで安定した。
日本政府の移民奨励策により、ブラジルの日本人社会は1920年代から1930年代にかけて興隆期を迎えたが、(1933年、1934年には、年間2万人を超す移住者があった)1934年、ブラジルの新憲法制定議会により外国移民二分制限法(排日修正案)が制定(日本移民制限法ともいわれる)されたころから、ブラジル移民は減少し始め1939年以降は年間千人程にまで落ちた。この時期、1937年には後の南米銀行の前身であるブラジル拓植組合の銀行部が発足している。南米銀行の創立は3年後の1940年。 また、第二次世界大戦の前年である1938年になると、ブラジル政府は日本人移民の文化・教育活動に制限を設け始めた。同年12月、政府は全ての外国人学校(とくに枢軸国人である、日本人、イタリア人、ドイツ人の学校)の閉鎖を命じた。枢軸国の移民たちは、戦争が近いことを感じた。1941年8月、日本語新聞及び雑誌の刊行停止命令が出され全て廃刊となった。またこの8月入港の移民船「ぶえのすあいれす丸」の移住者を最後として「笠戸丸」以来、33年にわたり約19万人に及んだ、いわゆる戦前移民は終わることとなる。以後太平洋戦争を挟んで11年余の移民空白期間が訪れる。 1941年12月8日、日本は太平洋戦争へ突入。翌年、1942年の1月19日にサンパウロ州保安局は枢軸国人の取締り令を公布、これにより自宅以外での母国語の使用、母国語で書かれた文書の配布、集会、当局の許可なしの旅行ならび転居等が禁じられることとなった。続いて、1月29日、ブラジル政府は枢軸国との国交を断絶、在伯公館の閉鎖を要求し、在伯ドイツ人、イタリア人、それに日本人を敵性国人と指定した。29日、ブラジル政府は枢軸国との国交断絶を宣言。
終戦後
1945年8月15日の連合国に対する日本の無条件降伏は、信頼のおける情報を提供する新聞が皆無であったブラジルの日系社会に大混乱をもたらした。その原因は、日本の敗戦を信じなかった戦勝派(または勝ち組)と敗戦を信じた認識派(負け組み)による対立である。戦勝派の過激者組織である臣道連盟による認識派への襲撃は数多くの犠牲者を出したが、公安当局の徹底した取締りと大量逮捕により過激活動は封じられ臣道連盟も壊滅した。
1952年はじめ、サンパウロ市制400年祭に協力を依頼された日系社会は、総力をあげて協力。ブラジル政府から参加協力を依頼された日本政府も官民合わせて計2億2千5百万円の予算を400年祭関連の事業に投じ、祭典の成功に大きく貢献した。400年祭での大成功は、日系社会に自信と誇りを回復させると同時に戦後の対立で混乱を起こした日系社会をまとめなおす絶好の機会となった。 (*)この数字は、1958年に、移民50年祭記念事業の一つとして実施された、コロニア実態調査による数字。
ブラジル社会への同化
1960年代は日系人のブラジル社会への社会進出が顕著となった時期でもあった。政界への日系人進出もさることながら、オナガ・ヒデオ氏のフォーリャ・デ・サンパウロ社での活躍と画家、間部学(マベ・マナブ)氏の作品が画壇で注目を浴び始めた等、メディアと芸術の分野できわ立った進出が見られた。この時期はまた日系初の大臣が誕生した時期でもあった。まず、最初に安田ファビオ氏がコスタ・エ・シルバ政権の商工大臣に任命された。その後、さらに二人の日系人が大臣に。ガイゼル政権の植木シゲアキ鉱山動力大臣とサルネイ政権の續正剛(ツヅキ・セイゴ)厚生大臣である。なお、1964年にはサンパウロ市のサンジョアキン街にブラジル日本文化協会ビル(文協)が完成。これ以降、文協は日本人移民及び日系人の主だったイベントを実施するようになる。 1967年、皇太子ご夫妻(現天皇御夫妻)が初めてブラジルを訪問。皇太子ご夫妻が出席されて行なわれたパカエンブー競技場での歓迎式典には、8万人の日系人が集まった。皇太子ご夫妻の訪問以降、日伯両国間における人的交流が活発化し、それはやがて後年、日本産業界の大きな対ブラジル投資やナショナルプロジェクトという結実を見せることになる。ちなみに、ブラジルは1968年から高度成長時代に入った。 1973年、最後の移民船にっぽん丸がサントスに到着。以降、移民は全て空路となる。いずれにせよ、1953年に再開された移住は、約6万人に登り、日本の経済成長に伴って終焉することになる。1973年より70年代には、日系文学(日系コロニア文学)も登場し始めた。代表的な日系作家は「日本の過去と現在」(1978年刊)、「サムライの歴史」(1982年刊)などを著した山城ジョゼー氏、また、半田知雄氏の「ブラジル日本移民・日系社会史年表」(1987年刊)は、日系コロニア文学を研究するものにとって必読の書と言われている。70年代はまた、日本でブラジル・ブームが盛んになった時期であり、400社近い日本企業がブラジルに進出した。戦前からの日本企業進出数が70数社であったことから見ても、驚異的な数と言える。 1978年、ブラジルの日系社会は移民70周年を迎え、再度、皇太子ご夫妻をお迎えし、パカエンブー競技場で行なわれた記念式典には、8万人以上の日系人が参加した。式典にはガイゼル大統領も出席。 同時期には移民資料館が日本文化センター(後にブラジル日本文化福祉協会と改名)のビル内に開設されている。一方、史上最大、最高と言われた70周年祭典と対照的に、70年代の後半は日本進出企業の撤収が目立つようになった。撤収は二度にわたる石油ショックで打撃を受けたブラジル経済に魅力を失ったのが主因であり、撤収企業数は百数十社に上った。
1988年に同じくパカエンブー競技場で行なわれた日本人移民80年祭には、礼宮様をお迎えして行なわれ、4万人の日系人が参加した。また、日本人移民・日系人の人口調査がサンプリング方法を使用して実施され、128万人の日本人移民及び日系人がブラジルに在住することが分かった。なお、この時期における日本人一世移民の数は日系総人口の12.5パーセント(約15万3500人)と推定されている。(現在の一世帯数は、全体の4%約6万人程度)同年には、日本語普及センターが創設されている。
デカセギ現象
年間数千人にもおよぶ、ブラジル日系人の日本への出稼ぎ(デカセギ)は1988年に始まり、2000年代初頭にピークを迎えた。デカセギ子弟は、笠戸丸移民がたどったのとは逆にブラジルから同じ目的、つまり金を稼いで母国に帰る″をもって大量に日本へ働きに行くようになった。デカセギ現象は、ブラジルの日本人移民及び日系社会の歴史上から見ても極めて注目に値する出来事となった。 1991年、ブラジル日本文化福祉協会(文協)は、「デカセギ現象」というテーマでシンポジウムを開催。その翌年、日本外務省の協力を得てCIATE(国外就労者情報援護センター)が文協ビル内に創設された。この時期には日系コロニア初のフィクション作家も誕生した。ラウラ・ハセガワ氏であり、デカセギをテーマの作品「閉ざされた夢」(1982年刊)を発表。 1995年には日伯修好・通商条約百周年が慶祝された。記念祭典には紀宮内親王がご出席。さらに1997年には天皇ご夫妻が訪伯、十日間滞在され、日系社会に大きな感動をもたらした。1998年には日本人移民90周年祭がブラジル中で慶祝された。この祭典には笠戸丸移民の最後の生存者である中川トミさんも参加した。
(*)この数字は移民80周年記念事業の一つとして実施された、日本人移民及び日系人の人口調査の結果得られた数字、128万人をベースにして試算した結果出された数字であり、一世から六世までを含む
参考資料: 「ブラジル日本移民80年史」 日本移民80年史編纂委員会 「移民の生活の歴史」 半田 知雄 著 「ブラジル日系社会 百年の水流」外山 修 著 「環海異聞」
日本語訳 小川 憲治
訳者注:「略史−ブラジル日本移民参考文献」は「História da Imigração Japonesa no Brasil(ブラジル日本移民の歴史)」を訳者が翻訳したものに上述の資料を参考に追加補足(画像含む)したものです。 |